どうにかなるべぇ

昨日は友人から電話があり自分の何年か前のブログの記事を音読されるという拷問を受けました。


それにしても後から読み返すとあのテンションと恥ずかしさはなんだと。もうこれからは絶対あんな事書くわけない。自分も成長したな!と思いきや、数年後またここを振り返ったら同じような事になるであろうのは不思議な話。

最近は新しく頑張っていた方のブログも全然更新しておらず。書きたくないと思ってやめていたわけではなく、特に理由があるわけではないけど、おばあちゃんが死んでからにはなる。

お葬式で数日間忙しかった間は毎日やっていた、今思うとやらされていたのかもしれないゲームアプリもやる時間もなく。何時にあんなイベントがあるからその時間にゲームしなきゃ、スタミナ無駄にしないように満タンになる前にゲームしなきゃ、とゲームに時間を縛られていたことにようやく気付きました。

やらなかったのは数日だったけど、それでそれに気付いてからはなんか楽になったというか、別にそんなに無理してまでやらなくていいかと思うようになり。プライド的なものもなくなり。

おばあちゃんが死んだことは関係ないような気もするけど、でもなんとなくブログもそうだけど続けてたことに力が入らなくなったというか。いいのか悪いのかもわからないけど。

あとは初めて家族のこの世からいなくなるという経験をして思う事はたくさんあった。そういうのをこういう所に書くというのは不謹慎という考えもあるかもしれないけど僕はそうは思わない。まあ敢えて誰かに伝えるべきものでもないのかもしれないけど。でも他人のそういう時の気持ちを自分は詳しく聞いたことも見たこともないから、誰かに見られるようにする事も意味のあることのように思う。

死は避けられないし受け止めるしかないんだし、その話題がタブーと避けるのは何か逆に隠しているような、逃げているような感じがする。ただそうやって多少余裕でいられるのはおばあちゃんという、他人よりは近いけど親よりは遠い存在だからなのかもしれない。

そんな差をつけるのは確実に不謹慎だけどそれは間違いない。だから自分の親が死んだ時は余裕ではいられないのは今でもわかる。そしておばあちゃんのお葬式で考えていたことはそれが多かった。母親にとっての親が今いなくなった、そしていずれ自分にとってのそれが来ると。その時自分は今の母親のように強くいられるか?最後まで一緒にいてあげることができたと後悔少なくいられるか?

人が死ぬというのはそれ自体でも悲しいけれど、それを見て悲しむ家族を見るのはもっと悲しかった。おばあちゃんは死んでも普通に寝ているような顔だった。別に何もみんなを悲しませようとなんてしていなかったし、悲しがってもいなかった。それなのにおばあちゃんの周りの世界ではみんなは泣いて、普段とは違う重々しい儀式的なもので囲まれて。悲しい世界はこっちだけだった。でも最後にその二つの世界の隔たりで、こっちの世界の悲しみがおばあちゃんには伝わらずそれだけは救いだったと思うようにした。悲しみは全てこっちの世界で引き取った。おばあちゃんは悲しい顔でいないことを願う。