OYSTER

何がしたいの?って聞いてみたら全然わからない。自分が何をしたいのか。やり直したい?そんな事でもない。悩みを解決する方法は何で悩んでるかの原因を自分で認識することだと偉いヒゲのおじさんから学んだけれども、原因が見つからない。


見つからないのは原因がないからなのかもしれない。ただ会いたいだけらしい。そして何で会いたいかを考えたら忘れたくないから、そして忘れられたくないから、らしい。それが原因といえばそうなのだけれど。自分としたら原因というかはただの欲求。無理な事に対する。それを受け入れるべきだと自分でも何度も書いたにもかかわらず。

忘れるべきものは自然と忘れる。自分よりもっと自分らしいものが勝手にそうする。それに自分が忘れようとして頑張って忘れたんだ!なんて後から理由を付ける人もいるけれど。

ただ忘れたくなくてもきついと忘れる。それを思い出すのがきついから害のあるものだと捉えられて。多分今はそれに抵抗している最中なのかもしれない。

なんでそんなに忘れたくないかといえば思い出す過去があるということはその時の自分の意思は確かなものだったはずだから。いつも今の時点で振り返ることのできない勝手に消えるような意味のない過去を作るようには生きていない。

過去は美化されるとか、振り返るべきじゃないとか聞くけど、自分はそうは思わない。振り返らないでどうやってその時の今が正しかったかわかるのか。後から答え合わせなんてしてもしょうがないんだから今の事だけ考えればいいんだよ、と言われるのかもしれないけれど。

確かにじゃあ過去にしたことが正しかったとして、今も思い出せる事実だとして、だから何?って話になってしまう。それがこれからの事も確かにしてくれるのか?そしたらまたじゃあこれからどうしたいのか、と最初に戻ってきてしまう。

答えはどうやらわかってるような気もするからやっぱり抵抗したいだけなのかもしれない。

みぞれ梨

確かに変わってしまって今はそうでもないことはあっても、それが確かなのは目に見えたり物理的な問題であるから。そこは確かに受け入れるべきだし、受け入れるしかない。

でもそれで全てが終わったと考えることに結びつかなくて、さらに結びつけたくもないと思うということは、物理的な問題以外では変わってなく、変わっていないと信じたいことがあるから。

そしてそれの方が変わってしまったことを認識することは難しい。人の気持ちをどうこう考えても自分だけでは確かにすることができないから。

じゃあ直接聞けばって話だけど、それを直接聞いて確かにしようと思うくらいの関係ならばそれはそれで終わっているのかもしれない。やはり信じたいと自分が思うなら信じるべきだという最近大切にしている考えに結局落ち着く。


それにしても人間は物理的に距離にめっぽう弱い。精神の繋がりさえあれば関係ない!と今まで大勢の人間がそれに抗ってきただろうけど、それに勝てた人はほとんどいないはず。「あの二人の遠距離恋愛続くと思う?」の質問には、続かないと思う、と答えておいて大体間違いはない。

そんなようなよくある展開を見てきても、やっぱり人間は距離に弱いし、精神的な繋がりを保つためには物理的な関わりも必要だし。

そもそも本当の精神的繋がりという完全のようなものを人間に実現できるのかということを考えると、やはり人間は不完全で、なんというか生物、という感じすら最近してしまう。

色々考えてて書いたものの、また会いたいな、って一言いえば片付いた気もする。

月次処理

もう今年も1ヶ月経ってしまった。早い、早すぎる!月次処理だって後11回しかない。少ない、少なすぎる!そう考える度、気付いたら死ぬとき時と認識する時も早く訪れそうと考えると恐ろしい。


またそんな事を考えているのかと自ら気付いた時に、そうか今日は月曜日か、というお決まりが最近ある。今何をしているんだろう、なんてそんな事をこんな歳にもなって考えて。

別れ際は大抵それじゃあまた、と言うようにしているけどそれでもそれがその時は知る由もなく最後になるなんていうのは悲しい。

時間が進む毎に自然と世界は別になって交わることはどんどん無くなっていきそうで怖い。それでも自分も進んでいかなきゃいけないし、そろそろ決めなきゃいけない事もあるし、今年は変わることがたくさんありそう。なんとか変えないようにはするけど。

あけましておめでとうございます

何だろうこの悲しさ!見ている人は恐らく数人、いや数人もいないかもしれないのにこんな挨拶をするなんて!


それはさて置き去年は短かった。何もなかったからなんでしょう。1人の人がいないだけでこんなにも時の流れが早くなるとは。東京の暮らしにも変化がなくなってきたのか。そろそろ本当に住むべき所に戻る時間か。仕事で住む場所など決めたくなくはなくて、住みたい場所で生きて後のことはそれから考えればいいと思ったのは東京で暮らしてわかったことだけれども。

ここは昔通り日記のようなブログに戻ってこっちはこっちで残しておいてよかった。ただこっちはいつも見て欲しい人が大体決まってるずるいブログ。見られているかはわからないけど、どこかそれを期待して一方的に思っていることを書いて先回りする。そうしたら何か変えられるような気がして。

ただ最近そうやって人の気持ちを変えようとした所で何の意味があるのかとも思う。自分だけがそう思えれば大抵のことは人の思いがどうであれ関係ないという考えだけど、それでは意味を持たないものも思いつく所一つあって。何とかして変えようとして変えてるような気がする。自分はいつも待てない。だから最近は待ってみてもいいのかなとも思う。それは変えるに値しないから待てるのかもしれないという恐怖もあるけど、待とうと思った初めての考えが浮かんだことの方に意味があると思いたい。

結局書いてるから待ててはいないんだけど。


PERSUASION

あの少し湿った暑い寝室

ベランダで吸ったいつもと違う煙草
閉めきったカーテンの隙間から部屋に入る街灯の光
その時を後から思い出せるように敢えて聴いた曲

こんなに鮮明に思い出せるのにあの時にはもう戻れない
次の日にいつもと違う匂いが自分からするだけでうれしくなってしまうよ

さあどうですかこれでも西野のカナさんに勝てないとでも言うのですか!っていつも最後にふざけないと恥ずかしいんですよね。



また今度

例えば今日みたいに一年に一回やることがあるとして、仮に80歳くらいまで生きられるとして、そしたらあと50回くらいしかこれをできないことになる。あとたった50回。だから一緒の時間を大切にしたいし、これからもまたここにこうやって来たい。

このようなくそ面倒臭いプロポーズはどうでしょう。
そんな冗談はともかく、でも本当に一年単位で考えたら残りなんてあっという間。自分のことだってよくわからないのに、それでも考えたい自分以外の人がいるというのは凄いこと。
結局自分一人の自分なんてものはないのだろうけど。自分がなりたい自分を変えてでもその人のがそう言うのなら、そうしようと思えるのなら、それは大切な人なのでしょう。
そんな話もともかく一年に一回だとしたら切ないものです。一年に一回でもあるだけいいのかもしれないけれど。そして頑張ってまた今度、と言うしかない。今度がなくてその時が最後になるかもしれないと思いつつも。

TAKE IT TO THE GRAVE

一体どんな顔をして会えばいいのか。
そういえばこうやって普通に会うのは殆んどなくて、思い出してみれば初めて会った時と他数回くらいしか思いつかない。
そんなことを今になって思い出してみれば今まで一体何をやっていたのか。目的はそうじゃなかったと頭の方は思っているけれど。体の方はそうは動いてなかったと認識させられててどうしようもない気持ちになる。
体温を感じただけで全てをわかったような気になるあの魔物は恐ろしい。それを無くした時に本当に残るものはあるか。まだ繋がっていられる理由はあるか。結局肉体だけでは繋がってはいられない。物理的な距離と比例するような気持ちになどにはなんの価値もない。
今までの事はなくなるわけじゃないけれど、指を見てもそれをまだ保っていられるのかは自信がない。お互いの世界はもう違うというバリア的な恐ろしい物に見えてしまう気がして。
一年近く会っていなくても会った時に久しぶりと感じなかったのはそれは頭にあったからなのか、それとも会わない期間が空白過ぎて時を早く感じさせたからなのかなんなのか。
時間は流れて大体のものは変わって終わって始まるけれど、それでもそれに抗って残して続けたい物はなかなかあるものじゃない。そんな一見不可能に思えるような強い意志が肉体からくるわけがないと信じたい。
それでも触れれば安心してしまう気持ちはどこから来るのか。手の温度にあれほど安心させられたことは今までない。そして今は結局それを頼りにしてしまう。