SPLIT

こっちのブログは一旦何年ぶりになるのか。

鬱になり今はリハビリ中。その中でもやはり日々の生活を記録しておくのはいいらしい。前は自然にここでやっていたことが、いつの間にかできなく、やらなくなっていた。

ということで昔のようにまたやってみようと思う。

リハビリと言っても週三の午前中だけ。ただそれだけでも最初は意外と疲れた。ずっと家にいたわけだから。ただ普通の人たちと同じに起きて通勤してという時間に乗るだけで少し復活しているような気もする。

あとは自分が復職するだけ。今の状況で不満は何も無い。支えてくれる人たちがいて。あと普通の幸せに戻るためには復職することくらい。それさえ出来ればあとは何も当面いらないはず。それには自分の超自我にはちょっと黙っていてもらう必要がある。

と、鬱になってようやくフロイトの言ってることが実感できるようになった。今は自分が真面目なのではなく、真面目が自分になっている。自分の超自我は恐らく厳しすぎる。

その超自我が本当に親の躾から主に形成されたとするならそれはどうなのか。勉強しろとかいう厳しさは親にはなかったが、〜してはいけないという厳しさは多かったかもしれない。それが本当に今に影響しているとしても親のことを責めるつもりは全くないけれど。第一その厳しくある自分の性格が嫌いな訳では無い。

ただ今は、少しだけその厳しいガーディアンには黙ってもらって、もう少し本能の方に強くなってもらいたい。

親にお前は適当にやってるくらいで丁度いい、と言われた言葉が思い出される。本当にそうなのかもしれない、ってのは分かってるんだけど。ガーディアンがなかなか許してくれない。

DOCTOR

暑いですね。記録的な熱さらしいけど、確かに暑いけど、仕事中はずっと室内だからそこまでわからず。それにしても記録的なって毎年聞いているような気がする。夏が来る度冬が来る度。

嫁が中国に出張に行った。毎回最初の数日は一人の時間を楽しんではいるけどすぐ嫁禁断症状が出てくる。一緒にいて10年以上にもなるというのに飽きるという言葉があってるかはわからないけどそういった類のことがあまりないのは自分でも驚く。付き合った当初のようなときめき的なものはあまりないけどそれは当たり前の話でどうでもいい。大体一生ときめきを求めてリセットしてたらそれはただの飽きやすい人間な気がする。一回ときめいた後はその人を知るために一生を費やせばいい。それだって足りないくらい一生なんて短いのだから。これからやることは一緒に共有する、それを考えたらそれも多少ときめきに入るんじゃなかろうか。

そんなことはどうでもよくて、自分の記憶を消して街で嫁とすれ違った時自分は振り返ることができるか?NOの日が続くなら…じゃなくてそんな事を考えるとどうするべきかわかるような気がする。

REBIRTH

夏ですね。去年よりも夏が来るのが早いのは27回目だからなのでしょうか。

そんな神様も聞き飽きたような時間の早さを実感していると過去や未来のことも一緒に考えてしまう。嫁と出会ってからは12年経つということになる。そう考えると生きてるうちの結構に彼女がいたということになる。逆に長く生きてもあとこれまでの7回分くらいしか一緒にいられない事になる。そう考えると前のようにふわっとはする気にならなくなった。

最近自分のおばあちゃんの話になり、苗字は新海だと言ったら離婚して苗字は変わらなかったんだねという話になった。でももしその時苗字が新海に変わってたら私たちが高校時代あの席で出会う事は無かったね、と言った。たまにはロマンチックな事を言うもんだなと思った。入学して斜め前の席が嫁だった。

運命なんて言葉は偶然に後からこじ付けただけの言葉だと思っているけど、それでもそれは一緒にいなければできない事なのだから、後からこじ付けられる関係があと7回分続けばいいと思う。そしたらその時は運命くらいだったと言っていいのかもしれない。

はてなブログに引っ越しました

ずっとアメブロを使っていたけど何かが良くて使っていたわけでもなかったので、前から気になっていたはてなブログに引っ越してきました。友人もはてなでブログを始めたことだしこれを機に移行作業を。

言われている通りアメブロ→FC2→はてなダイアリーはてなブログの手順で。はてなダイアリーが見つかりにくかったのと、2010年の記事だけ2件ずつインポートされてしまって消す作業が面倒だった以外は問題ありませんでした。

それにしてもそれくらいの時のブログを読み返すと本当に恥ずかしい。意味がわからない。なんだあのテンションは。友人は見てくれているだろうと謎の語りかけのようなテンションで本当に意味がわからない。年指定で一括非公開にできないものか。

それより友人がブログを始めたのが割と嬉しい。SNSが流行り始めて情報が昔よりは勝手に自分に入ってくるようになった。自分が必要としていないことでも。見たいものがあるからSNSを開くのだけど、それと同時に寧ろ見たいもの以上の不必要なものが通過していく。そうならないようにSNSを使えばいい話だけどそれもなかなか難しい。付き合い的なものもある。そう考えるとSNSはよりリアルな気もする。名前の指し示す通りなのだけど。

これだけ情報に溢れると本当に自分で制御していかないと溺れる。ネットでのサーチ能力を上げるのも重要だけど、情報量を制御する力の重要性はあまり言われない気がする。正しいか正しくないかとかのリテラシーの問題とは別な純粋な情報量の制御というか。それもリテラシーには含まれてないと理解しているので。

まあそれはともかく見たい友人のブログを見に行くというSNSとは違った、自分で見たいと思って能動的にその人だけに会いに行くような、そんな趣がある。SNSは色々な人の集まりに取り敢えず参加してみるというような感じがする。そして自分はそういうのがあまり好きじゃない。

ブログが変わっただけでもなんとなく新鮮な気持ちがして悪くない!

イナヅマ

丁度3年前くらいのブログを読み返していたらもうそんな時期かと思った。この時期の湿気が思い出させる。もう3年って早かったなとも思ったけど、あの時気にかけていた違う路線からその時を今思い返すような状態ではないであろう事には安心した。色々な事があって色々変わったけれどそう思えるということは、間違えてはいなかったのかと勝手に思う。永遠なんて物はないことは知っているけれど自分が死ぬまでを永遠だとするのならそれくらいは続けたいもの。


それにしても昔のブログってのは自分で見返すのも発狂しちゃうくらい気持ち悪いけど、ないよりは楽しいかなとも思う。ただ気持ち悪すぎたのでおかしなテンションはやめていこうと思う次第であります。

映画チョコレートドーナツを借りたけど3日延滞して800円。旧作だと思っててっきり一週間で借りたと思っていた!ゲオ殿が電話してきてくれなかったらどうなってたことやら。

確かに考えさせられる話ではあったけど、自分の日常には縁のない要素が多すぎて感情移入があまりできなかった。結局自分は第三者にしかなれなくて。映画じゃなかったとしても当たり前のことだけれど。免許更新で事故の怖いビデオを観ても次の日には忘れてしまっている感じと似ていた。

お元気ですか?

梅雨ほど嫌いなものはない気がする。晴れているというのはそれだけで素晴らしいのだから。そして革靴、眼鏡にこだわり出してからというもの、雨の日はお気に入りを身につけられないからテンションが下がる。好きな物を身につけるとそれだけでカチッとした気分になる。


いつからかファッション雑誌などは見なくなり、自分の着たい物が決まってきた気がする。恐らく自分のおじいちゃんの影響なのだろうけど、ジジイみたいな服装が渋くかっこいいと思う。いつからかズボンはスラックスしか履かなくなった。いつかおじいちゃんがよくやっていたスラックスに下駄が履けるようなジジイになりたい。

大切だった人に赤ちゃんができたと知ったらどうなるのかと、そんな日も近く来るだろうとは思っていたけど、思っていたよりは大丈夫だった。最近はあまりにも時間が流れるのが早くて、それを受け入れるしかなくて受け入れて、そしたら自然と過去のことになった。そんな言い方はしたくないし、そこで終わったという意味の過去ではなく。あんな事もあったねと後から振り返られるような関係でいる覚悟が出来たのかもしれない。それだけお互い進んでいるらしい。

最近は家族の繋がりについて前よりも考える。結婚して次は自分の子供の可能性もあるのだし。赤ちゃんを見てかわいいとは未だに思わないけど、歩いてるくらいの子供と親を見ると自分と照らし合わせて考えてしまう。自分の子供だったら可愛いと思わないはずがなく、ここに自分の子供がいて、その人間と話をすると言うのはどれだけ楽しいことなのだろうかと。自分の母親も自分が子供だった時はそんな気持ちだったのだろうかと思う。母親が「お前もこんなに小さい時があってかわいかった」とよく言っていた。そしてその人間が大学へ行き、就職し、結婚して、その経過を見てきたのはどれだけ楽しかったのだろうと思う。そんなことを考えるとそう言えば今まで母親の気持ちになって考えたことが無いことに気付いた。そして母親も自分の子供を可愛いと思っていたのだろう、と自分が思えるということは愛を持って育ててもらえたということなのかもしれないと思って、なんとも言えない気持ちになった。

それと関係してかしないか、「お前に娘はやらん!」という展開をよく聞くが、果たしてそんな事があるのか。確かに娘は可愛いかもしれない。手放すのは辛いかもしれない。しかし、この世で最も信じることのできる人間「自分」と、最も信じたいと思う人間「愛する人」から生まれた人間「娘」。そんな彼女が選んだ人間「男」。彼女のその判断を信じたいと思わない事があろうか、その男を信じたいと思わない事があろうか!

どうにかなるべぇ

昨日は友人から電話があり自分の何年か前のブログの記事を音読されるという拷問を受けました。


それにしても後から読み返すとあのテンションと恥ずかしさはなんだと。もうこれからは絶対あんな事書くわけない。自分も成長したな!と思いきや、数年後またここを振り返ったら同じような事になるであろうのは不思議な話。

最近は新しく頑張っていた方のブログも全然更新しておらず。書きたくないと思ってやめていたわけではなく、特に理由があるわけではないけど、おばあちゃんが死んでからにはなる。

お葬式で数日間忙しかった間は毎日やっていた、今思うとやらされていたのかもしれないゲームアプリもやる時間もなく。何時にあんなイベントがあるからその時間にゲームしなきゃ、スタミナ無駄にしないように満タンになる前にゲームしなきゃ、とゲームに時間を縛られていたことにようやく気付きました。

やらなかったのは数日だったけど、それでそれに気付いてからはなんか楽になったというか、別にそんなに無理してまでやらなくていいかと思うようになり。プライド的なものもなくなり。

おばあちゃんが死んだことは関係ないような気もするけど、でもなんとなくブログもそうだけど続けてたことに力が入らなくなったというか。いいのか悪いのかもわからないけど。

あとは初めて家族のこの世からいなくなるという経験をして思う事はたくさんあった。そういうのをこういう所に書くというのは不謹慎という考えもあるかもしれないけど僕はそうは思わない。まあ敢えて誰かに伝えるべきものでもないのかもしれないけど。でも他人のそういう時の気持ちを自分は詳しく聞いたことも見たこともないから、誰かに見られるようにする事も意味のあることのように思う。

死は避けられないし受け止めるしかないんだし、その話題がタブーと避けるのは何か逆に隠しているような、逃げているような感じがする。ただそうやって多少余裕でいられるのはおばあちゃんという、他人よりは近いけど親よりは遠い存在だからなのかもしれない。

そんな差をつけるのは確実に不謹慎だけどそれは間違いない。だから自分の親が死んだ時は余裕ではいられないのは今でもわかる。そしておばあちゃんのお葬式で考えていたことはそれが多かった。母親にとっての親が今いなくなった、そしていずれ自分にとってのそれが来ると。その時自分は今の母親のように強くいられるか?最後まで一緒にいてあげることができたと後悔少なくいられるか?

人が死ぬというのはそれ自体でも悲しいけれど、それを見て悲しむ家族を見るのはもっと悲しかった。おばあちゃんは死んでも普通に寝ているような顔だった。別に何もみんなを悲しませようとなんてしていなかったし、悲しがってもいなかった。それなのにおばあちゃんの周りの世界ではみんなは泣いて、普段とは違う重々しい儀式的なもので囲まれて。悲しい世界はこっちだけだった。でも最後にその二つの世界の隔たりで、こっちの世界の悲しみがおばあちゃんには伝わらずそれだけは救いだったと思うようにした。悲しみは全てこっちの世界で引き取った。おばあちゃんは悲しい顔でいないことを願う。